怖い顔
わたしは皆の役に立ちたかった。
皆に認められて、頼られて、そんな自分が好きだった。
他者からの評価でしか自分を認められないからこそ、どんなに大変でも周りに気を配ることをやめなかった。それで良かった。皆の為のわたしだったから。
菊地に切ったばかりの血まみれの腕を見せた。
「これを見たら皆わたしの気持ちを分かってくれるかな」
常に冷静な筈の菊地は、驚きと恐怖を隠しきれていなかった。
初めて菊地が何かに怯えている顔を見て、その表情があまりにも痛々しくて気がつけばわたしは泣き叫んでいた。
いつかこうなる事は分かっていた。
順調に病状も寛解に近付いていたけれど、このまま何事もなくあっさりと完治する訳がないと心のどこかで確信していた。わたしの人生で物事が大きな障害もなく順調に進んだ試しなどないから。
菊地は必死にわたしに止血を促した。わたしは菊地に嫌われてしまうだろうという恐怖、誰もわたしを求めてくれない悲しみ、邪魔物、お荷物、居場所を失った絶望感でいっぱいになり、その場に踞って発狂するしかなかった。気付けば何故か顔にも血が沢山ついていた。ごめんなさいと謝り続けるわたしを菊地は強く抱き締めて、その手は小刻みに震えていた。
明日は更新した障害者手帳を取りに行く。
二ヶ所の役所に行かなくてはいけないので正直クソほどかったるいが、顔付き身分証明書が障害者手帳しかないので仕方ない。
セルフネイルをした。仕事柄派手なネイルは厳禁なので今の仕事に就いてからほとんどしなかったが、いい機会だと思いやってみると思いの外難しかった。左の薬指にエメラルドグリーンのストーンを、右の人差し指にターコイズブルーのストーンをつけた。とてもかわいくて気に入った。
明日の夜ご飯は何にしよう。
家族と菊池と当たり前の話
わたしはとうとう正社員になる。
三年近くもの間ずっとフリーターだったけれど、晴れて社会人として生きていくことができる。これでやっと普通に近付ける、当たり前のことができる人間になれる。そう考えると嬉しくて堪らなかった。
もうすぐ父親が仕事を辞めて二年になる。
少し遅く起きて、テレビを見て、ご飯を食べて、またテレビを見て、お風呂に入って、ご飯を食べて、テレビを見て、寝る。それだけの生活をあの人は二年もの間続けてきた。
というより、それしか出来ないんだと思う。
父親と同じ精神科に罹っているので、先生に父親のことを毎月聞くのだけれど、先生が「実は」と口を開いた。
わたしは統合失調症。恐らく小学校低学年の頃から。父親は鬱病、の筈だった。
けれど先生はわたしにこう言った。
「りょうこちゃんの統合失調症はね、お父さんから来てる。そしてそのお父さんも、両親のどちらかから遺伝している」
薄々分かっていた。人目を気にするように辺りをギョロギョロ睨みつけること。異常に神経過敏になったこと。リビングの真ん中で直立不動のままボーッとしていること。これら全部、わたしの容体が一番悪かった頃と一致していた。そして極め付けは、わたしと同じ薬を飲んでいたこと。
やっぱりか。悲しいだとか辛いだとかよりも、わたしの推測が当たっていた事を不思議とすんなり受け入れられた。
先生の「きっとお姉さんはお母さんに似て、りょうこちゃんはお父さんに似たんだね」という言葉も、それについては昔からよく分かっていたので、「そうなんですよね。父によく似てるんです、わたし」と言った時に何故だか涙が込み上げてきて少し泣いた。
姉はもうすぐ結婚するらしい。母に似て健常者として生きられて、精神科なんて未知の世界といった人で、皆んなに愛されていて、人生で初めて付き合った人とゴールインする。
許せなかった。
同じ親同じ家庭で育った二つ違いの姉。何故姉はこんなにも普通なのに、わたしは精神障害者なのか。
わたしが何か悪い事をしたのだろうか。前世でどんだけの悪行三昧だったのだろうか。
きっとこの問題は誰も悪くない。わたしも姉も両親も。頭ではそう分かっている。分かっているのに、姉の人生を滅茶苦茶にしたくなる。
お花畑のような脳みそをした姉を絶望させたい。死んだ方が救われると思うような状況に陥ってほしい。そう思ってしまう。
わたしは菊池と結婚したい。それは彼を心から愛しているから。家族になりたい。一番近しい存在になりたいから。
でも本当は無意識の中で、わたしも"""当たり前"""の人生を歩む普通の人になりたいからなのかもしれない。
結婚をして子供を産んで育てて、そういった世の中の大半の女性がしているであろう過程を歩みたい。普通の女性になりたい。そういった気持ちから来るものなのかもしれない。
だとしたら、菊池は絶対にわたしと結婚なんてしてはいけない。わたしは菊池を愛していると言いながら、自身のエゴのために菊池と一緒になりたいのかもしれないから。
菊池はわたしの事を本当に可愛がってくれて、愛してくれて、わたしという存在を認め、受け入れ、尊重してくれている。だからここまで生きてこれた。
わたしは2年間ずっと、毎週日曜日のためだけに働いてきた。そして今月には正社員になる。
菊池や姉のようになりたい。健常者になりたい。普通でありたい。
わたしはただ、皆んなの歩むような"""当たり前"""が欲しいだけなのに。
いただきます
頭の中で妄想が渦巻いてそれがあたかも本当に起こった事の様に頭を過って我ながら恐ろしい。
これが統合失調症というものなんだろうな。誰に対しての怒りなのかがもう分からない。目の前には誰もいない。架空の人間と対話している。頭では分かっても心が追いつかない。存在しない感情と戦っている。只の馬鹿だ。
父親は鬱病、私は統合失調症。メンヘラ一家までの王手がかけられた。あとは母親と姉だけ。
姉は何も知らない。私が狂って自殺未遂をして入院した事も、自らの父親が鬱病で休職しているのも。何も知らない。
こんな現実、私も知りたくなかった。目を逸らしたくとも目の前には鬱でまともな生活を送れなくなった父親がそこにはいる。私の周りには家族が精神障害者になった境遇の持ち主が多くいるから感覚が麻痺していたけど、これほどにまで辛いとは思わなかった。皆んなが当たり前にできてる事ができなくて焦燥感に駆られている私と父親。何方が先に倒れるか。
彼氏から連絡が来ない。このまま一生連絡が途絶えてしまうかもしれない。そうなったら、私は何もできない。何も知らないから。自分の事を教えるということを極度に嫌がるので、家も知らなければ職場も知らない。LINEをブロックされたらそれで終わり。そんな関係。仮に知っていたとしても、そこに行こうとは思わないだろうけど。そんな不安定な関係に、安心感なんて抱けるはずがない。ただでさえ常に不安との戦いなのにね。
昨日、久しぶりに脚を切った。錆びた剃刀は切れ味が悪くて、新しい剃刀を使ったらパックリと開いた傷ができてしまった。今も血が止まっていない。
なぜ腕や脚を切るのかよく聞かれるけれども、それ以上にこの苦しみを昇華させる方法を知らないからとしか言いようがない。逆に言えば、なぜ自傷をせず普通の生活を送れるのか問いたい。私にはもうできないことなんだと思う。健常者にできることが、私にはできない。全てにおいて。
私だって、切らなくて済む人間性なら良かった。わざわざ一生消えない傷を身体につけて、その後の人生の足枷になるなんて、馬鹿の一言に尽きる。
一生この傷と生きていく。私にその覚悟があるのか今でも分からないけど、もうそうせざるを得ないから、考えても仕方のないことかもしれない。本当は、切りたくない。でも切らなければこの苦しみは何処へやったらいいのだろう。誰も悪くない。生きている私が悪い。なら自分に罰を与えるしかない。それが私の自傷 。
今日はもう眠い。続きはまた明日。次があるかなんて知らないけど。
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